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 その女の名前はトムと言った。ナナプラザの2Fにあるエンジェルウィッチという店で、ショーダンサーとして働いていた。まっ黒な、長い髪をしていた。トムが背中をそらすようにすると、その髪の先端は、きゃしゃな彼女の腰にまで達していた。


 
 残念ながら、トムとの出会いをはっきりとは覚えていない。いつの間にか意識するようになったのだろう。そのころ私は、毎日のようにエンジェルウィッチへ通っていた。1Fのレインボー1やレインボー2などで時間を潰し、夜10時になる少し前に店に入るのだった。
 
 理由は、その時間からショーが始まるからだ。ショーが始まると、あっという間に客席が一杯になる。ショーを見るための良い席を確保するためには、10時前に店に入らないといけない。9時45分くらいには1Fの店でチェック・ビン(精算)するのだが、たまになかなかお釣りが来ないことがある。そのときは気が急く。ぴったり払えば良かったと後悔するのだ。
 
 
 ショーはだいたい、10時10分くらいに始まる。10時スタート言っているものの、やはり客の入りを見てスタートするようだ。10時5分になると店内のモニターが消され、いよいよという気分が高まる。そして照明が落とされ、音楽と共にDJの威勢の良い声が響く。ショーが始まるのだ。
 
 スタートは4人のダンサーが、全身にオイルを塗って登場する。その中にトムはいた。茶褐色の肌が、光の中に浮かび上がる。ポールを背にした彼女たちは、音楽に合わせて身体を上下させる。張りのある太腿が、腰のくびれが、肩からアゴにかけてのラインが、美しい。女性の身体はこんなにも美しいものだったのか。改めてそう感じた。
 
 静かで妖艶な曲と、そのダンスがとてもマッチしていた。ただゆっくりと身体を動かしているだけなのに、その美しさに惹き込まれている自分がいた。静かに、ゆったりと、曲に合わせて動く彼女たちの身体が、宝石のように輝いて見えるショーだった。よくありがちなオイル・ショーではない。あれは単にレズビアン・ショーだ。私は、あまりそういうのには興味がなかった。
 
 
 それからもいくつかのショーがある。トムも、何度かステージに登場し、降りて行った。そして、この店の看板とも言えるSMショーが始まる。SMショーと言っても、実際にムチで叩いたりするわけではない。S役の子がムチを持ち、M役の子が鎖につながれて登場し、激しい音楽に合わせてインモラルな愛を表現するショーだ。そして、そのM役としてトムが登場する。
 
 私がトムにぞっこんになったのは、おそらくトムが、このショーを担当するようになってからだと思う。顔が小さくて、東洋人らしい哀愁のある顔をしたトムは、いたぶられる役にぴったりだった。ムチで叩かれ、床にたたきつけられることで、その苦痛の中に官能を感じる。そこまで考えて踊っていたかどうか疑問だが、十分にそれが感じられた。
 
 踊っているとき、彼女に笑顔はない。真剣そのものの表情だ。髪を振り乱し、両手を床に叩きつけ、すっと背を反らせて顔を持ち上げた時、私は背筋に電気が走るのを感じた。「美しい!完璧だ。」最後は、S役の子がムチの柄をM役の子の喉にあてがい、のけぞらせるという決めのポーズ。スタンディングオベーションができるなら、そうしたい気持ちに何度駆られただろうか。
 
 
 トムが私の席にやってくるようになったのは、店に通い始めて随分たってからだった。私は敢えて誰も席に呼ばなかったし、トムも私に言い寄ることはなかった。おそらく何度かチップをあげているうちに、やっと私の存在に気づいたという感じだったろう。
 
 私は、気に入ったショーダンサーにはチップをあげていたが、毎回あげられるわけではない。ここのショーは真剣なので、ショーの最中にチップをあげることははばかられた。それで、ショーが終わったあとで渡すのだが、このタイミングが難しい。彼女たちはショーが終わると、さっさと控え室に戻ってしまうからだ。
 
 
 トムが私の席にやってくるようになって、私は彼女に1000バーツのチップを渡すようになった。素晴らしいショーを見せてくれるだけでもありがたいのに、さらに席にまで来てくれる。それが嬉しかったからだ。でも私は、それを十分な金額とは思わなかった。むしろ少ないと感じていたのだ。だからいつも、申し訳ない気持ちでいた。
 
 私からチップを受け取ると、トムはたいてい他の客のところへ行った。「ごめんね。今日は、あのお客さんにペイバーされているの。」妬みとか、悔しいといった感情は湧いて来なかった。ただ、「今日も楽しませてくれてありがとう。」という感謝の気持ちだった。
 
 私はそれまで、一度もトムをペイバーしなかった。「ショーダンサーのペイバー代は900バーツなの。それに自分の出番が終わらないと、帰れないのよ。」そう聞かされていたせいもあるが、トムを安易に抱くことは彼女を汚すような気がして、踏み出せなかったのだ。でもいつか、トムをペイバーする日が来るかもしれない。そういう予感はしていた。
 
 
 ある日、彼女がひどく酔っ払っていたことがあった。その日は、もうショーには登場しないと言って、着替えて私のところへ来た。「ねえ、ビールを飲ませてくれない?」私は二つ返事で承諾した。私にもたれかかるように抱きついてくるトム。彼女の身体の温もりが、とても心地良かった。
 
 しかしそのうち、彼女は崩れるように床に落ちた。酔いつぶれてしまったようだ。私が彼女を抱き起こす前に、店のスタッフが駆けつけた。そしてトムを抱きかかえると、そのまま店の外へ出て行った。彼女に何があったのかわからないが、酔いつぶれたいほど、つらいことか悲しいことがあったのだろう。
 
 私が知っているトムは、ショーに登場するダンサーだ。彼女の私生活までは知らない。私を見て、嬉しそうに微笑んでくれた表情だけが、唯一、私が知る彼女のプライベートな部分だった気がする。私がペイバーする日を待たず、いつしか店に姿を見せなくなったトム。今はどこでどうしているのか、誰に聞いてもわからない。