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 「こんなはした金、要らないわよ!」そう大声で怒鳴ると、彼女は突然500バーツ札を破り捨てた。目に涙を溜めているが、泣いてはいない。怒りのあまり、顔がくちゃくちゃになっているのだ。彼女の名前はニンと言う。前の夜、レインボー1でペイバーした女だ。一夜を共にして、たった500バーツはないだろうと思われるかもしれない。しかし、私にも言い分はある。言い訳がましいけれど、私の話を聞いてほしい。


 
 その夜、私はナナプラザのレインボー1にいた。ニンとは顔見知りではあったが、ペイバーしたことはなかった。ニンはこの日、なぜだか積極的に私をさそってきた。「ねえ、ペイバーしてよ。」私は、ニンを抱きたい気分ではなかった。するとニンはさらに言った。「お金は要らないから。ねえ、ペイバーして。」それでも私は、首を縦には振らなかった。
 
 そこに、メイがやってきた。メイとニンとは友達同士。そしてメイは、かつて私が何度かペイバーした女だった。私はメイに、言った。「一緒に遊びに行かない?」連れて帰る気持ちはなかったが、その日はどこかへ行きたい気分だったのだ。メイは、すぐに「いいわよ」と快諾した。
 
 するとニンが、「私も一緒に連れて行ってよ」と、すがりついてきた。私はニンに尋ねた。「本当にお金は要らないんだね?」ニンはうなずいた。私は2人分のペイバー代を給仕の子に支払った。メイとニンは、着替えるために控え室へと向かった。
 
 
 店の飲み代を清算し、私は2人と一緒にライブハウスへ行った。こんな遊びができるのも、タイならではのこと。ライブハウスで食事をし、ビールを飲み、踊った。いや、踊ったのは女の子2人で、私は見ているだけだった。
 
 やがて2時を回ったころ、私たちは帰ることにした。食事だけと約束したメイは、タクシーで帰るというので、タクシー代を含めて1000バーツをあげた。私は酔った勢いもあって、ニンと一緒にタクシーに乗り込み、マンションの私の部屋に戻ったのだ。
 
 
 朝になり、帰るというニンに、私は財布から500バーツを出して渡そうとした。元々お金は要らないという約束だったが、タクシー代くらいは出してあげようと思ったのだ。1000バーツではなく500バーツにしたのは、それはタクシー代という意味を表したかったからだ。
 
 その瞬間、ニンの形相が変わった。「ふざけないでよ!何で先に帰ったメイには1000バーツをあげておいて、朝までいた私にはたった500バーツなのよ!?」たしかに、そういう考え方もあるだろう。だけど、ちょっと待ってほしい。「あなたは、お金は要らないと言ったでしょ?忘れたの?」
 
 
 しかしニンは収まらなかった。「私は乞食じゃないのよ。お金ならいくらでも持っているんだから。ほら、見てご覧なさいよ。」そう言って、ハンドバッグから1000バーツ札の束を取り出して、これみよがしに私の目の前にさらした。「なによ、こんなはした金!」
 
 あっと驚く私の目の前で、ニンは私が渡した500バーツ札をビリビリと破って捨てた。それを見たとき、私の中で怒りに似た感情が沸き上がってくるのを感じた。ニンが捨てた札を拾い上げると、私はその激しい感情をぶつけるかのように、ニンに対して日本語でまくし立てた。
 
 「お前、ふざけるなよ!お金をいったい何だと思ってるんだ!お金は大事なものじゃないのか?大事なものなら、破ったりするんじゃない!だいたい、お前がお金は要らないからペイバーしてくれと言ったんだろう?メイがどうとか、お前には関係ないだろう!?」
 
 
 ニンはタイ語で罵る。私は日本語でまくし立てる。咬み合わない口ゲンカが、10分くらいは続いただろうか。それからしばらくは、まるで獣同士のようなにらみ合い。それも5分もすると、飽きてくる。私は言った。「帰れ!」
 
 ニンは、悔しそうな表情を見せながら、部屋を出て行った。破り捨てられた500バーツ札だけが、私の手の中に残った。どうして、こんなことになるのだろう?ニンがお金は要らないと言ったから、私に好意があるのだろうと信じただけなのに。悪いのはニンだ。そう思うものの、私の心は晴れなかった。
 
 
 その後も私は、レインボー1によく行った。ニンと顔を合わせることはあっても、無視した。もちろん彼女も、私に近づこうとはしなかった。そしていつからか、彼女の姿を見ることがなくなった。辞めてしまったのだろう。清々したような気持ちとともに、何かを忘れ物をしてきたような気持ちが心に残った。
 
 それから数年経っただろうか。私はレインボー1でニンと再会した。容貌は衰えたものの、昔のようなかわいらしい顔をしている。目があった時、私は思わず微笑んだ。懐かしさが勝ったのだ。彼女もまた、私に微笑みを返した。「ねえ、飲ませてよ。」「いいよ。」たったそれだけの会話だけれど、しこりが氷解したように感じた。