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 先月のことですが、ソイカウボーイではまた、映画かテレビの撮影をやってましたね。ちょうど仏教上の重要な祭日があった日あたりです。アソーク通りには撮影関連の車がズラッと停まって、中には出演者が着替えをするためのバスみたいな車も。どんな撮影かは確認しませんでしたが、ソイカウボーイは絵になるのでしょうね。


 そう言えば昨夜も、ソイカウボーイの入口で何やら撮影をやってました。人だかりができていて、警察官の姿もちらほら。最初は何か事故か事件かとも思ったのですが、どうもそうではない様子。警察官のゆるキャラみたいなのもいて、どうやらセーフティーゾーンのキャンペーンみたいです。
 
 それは良いのですが、そのためにアソーク通りは大渋滞です。道路に飛び出して撮影していて、車線を2つくらいふさいでいますから。それに人だかりができているものだから、見物渋滞にもなります。犯罪防止のキャンペーンもいいですけど、実質的な仕事もやってよね。
 
 
 さて、先日の1バーツさんの読者投稿「放たれた犬のようになろう」ですが、けっこう反響がありましたね。あれを読まれて、我が身を振り返られた方がけっこうおられたようです。それだけ多くの人が、同じような体験をされているということなのでしょう。もちろん私も、そんな体験を何度もしてきました。
 
 あるとき、付き合い始めた女性と駅で待ち合わせをしました。遅れて到着した私は、急いで自分の切符を買いました。すると彼女が怒るのです。「私のは?どうして自分のだけ買うのよ。」まるで私が自己中心的な人間であるかのようになじります。「いや、だって、すでに買ってるかもしれないと思ったし...。それに急いでいたから、買ったかどうか聞きそびれたんだよ。そんなに怒るなら、あなたも先に言ってくれたら良かったのに。」そういう思いを抱きながら、私はその思いを心の中で押し殺したのです。
 
 空気が読めない。思いやりが足りない。そう言って、自分とは違う考え方をする人を責めます。責められた側にも、そうしなかった正当な理由があるのに。惚れた者の弱み。何も言い返せません。そうやって翻弄されたのです。
 
 
 「もうこんなのは嫌だ。」そう考えてみても、本質的に「愛されたい」という気持ちが変わらない限り、相手に依存する気持ちは変わりません。「わがままな女性はコリゴリだから、今度は従順そうな女性にしよう。」そうやって従順な女性と付き合っても、今度はわざと意地悪をしたくなるのです。
 
 「ちょっと遅れそうだけど、まあ電話なんかしなくてもいいさ。」なぜ?それは、今までのように気を使いすぎて気疲れしたくないから。「女は甘やかすと、すぐにつけあがるからな。」それと、「こんなことをしても、オレのことを好きでいてくれるの?」と、相手の愛を試したいからです。
 
 
 「愛されたい」という思いは、自己肯定の欲求から生じます。自分自身を認めたいけど、そんなに価値がある人間だとは思えない。でも、誰かに認めてもらえないと、不安で辛い。だから、他の誰かから「愛されたい」のです。しかし、自分ですら認められない自分という存在を、いったい誰が愛してくれるでしょう?
 
 「遅れるなら電話してよ!」彼女がそう言って責めると、ホッとしてこう言うのです。「ほら、やっぱりオレのことを愛していないじゃないか。本当に好きなら、それくらい大したことじゃないだろう!?」自分ですら認められない自分。他の誰かが愛するなんて、嘘に決まっている。そう無意識に思っているから、信じたくても信じられません。
 
 
 もしその彼女が、自分と同じように相手に依存するタイプだったら、どうなるでしょうか?「ごめんなさい。私が悪かったの。今度からあなたに気に入られるようにするから、私のこと捨てないで。」こうして、相手は愛を証明しようとして、自分でないものを演じるようになります。
 
 しかし、自分でないものを演じようとすれば、それは不満となって溜まっていきます。そしていつかは耐え切れなくなり、爆発することになります。そして、関係は破綻するのです。自分が我慢するのも、相手が我慢するのも、結果は同じです。
 
 
 そんな関係を何回も繰り返した結果、やっとそれが愚かなことだったと気づきました。「もう愛されなくていい。」愛を求めるから、苦しくなるのです。だったら、愛されなくていい。「何も得をしなくていいから、自分らしく生きよう。その方が気持ちがいい。」そう思って、相手が相手のままであることを受け入れ、相手がどうするかに関係なく愛することにしたのです。
 
 すると不思議なことに、愛されるようになるのです。関係がうまく行くようになるのです。そこまできて、やっとわかりました。「ただ、愛するだけで良かったのだ。」愛されようとしたときは、愛されなかった。でも、愛されなくていいから愛そうとしたら、愛されるようになったのです。
 
 
 そしてそうなってから、それまで出会った女性に、似たタイプが多いことに気づきました。つまり、何度も同じような出会いと別れの経験を繰り返したのです。それだけしつこく繰り返すことで、やっとボンクラな私でも気がついたということなのでしょう。
 
 個々の女性が意識していたわけではないでしょうけど、その女性たちを通じて、私は愛するということを教わったのです。彼女たちとの出会いがあったからこそ、今の私があると思うのです。そういう意味では、私と関わった女性たちはみな、私を導くために遣わされた天使だと思うのです。
 
 考え方はいろいろあるでしょう。出会いは偶然と考えることもできます。あるいは、私の意識とか魂が、自分にとって必要な女性を引き寄せた。それとも、その女性たちの魂が実は天使で、私を助け導くために遣わされた。どう考えてもかまいません。人それぞれです。でも私は、これは偶然ではなく、必然だったと思うのです。
 
 
 考えてみれば、恋愛に限らず、人生というものはすべて、そういうものかもしれません。様々な人との関係で、多くのことを学んできました。そういう意味で私は、実にたくさんの天使に取り囲まれて生きてきたのです。優しく導いてくれた天使もいたし、厳しく接することで私の思索を深めてくれた天使もいました。
 
 今、私が私であることに感謝しています。ですから、ここまで導いてくれた天使たちのことを、本当にありがたいと思います。そしてこれからも、さらに進化し続ける私でありたい。そう思うとき、今も多くの天使たちに取り囲まれていることを、心からありがたいと思うのです。