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 その店は、ソイカウボーイのほぼ真ん中にあった。今はダンサーのほとんどがコヨーティーになってしまったカウボーイ2だ。そこに昔、エーという女がいた。いや、女と言うより、少女と言った方がよいだろう。おそらく18歳に達しているかどうか。彼女を思い出しながら、1人ビールを飲んでいる。
 
 エーと出会ったのは、もう10年くらい前の話しだ。そのころのソイカウボーイは、まだ日本人が多く訪れる繁華街ではなかった。ただしバカラを除いては、ということだが。どことなく場末の香りすら漂う。そんな通りだった。
 
 
 そうそう、最近になってソイカウボーイへ行った人は、なぜ店の名前がカウボーイ2なのかと不思議に思うだろう。おそらく、女の子に聞いてもわからない。以前は隣に、カウボーイ1という小さい店があったのだ。ほぼ同じくらいの大きさだったスパイスガールズが、隣のカウボーイ1を合併吸収したってわけだ。
 
 カウボーイ2は、そのまま店の名を変えることなく残った。エーとの出会いは、隣にカウボーイ1がまだあったころだ。スパイスガールズができる前だったか、できてからだったか、そこの記憶ははっきりしない。まあ、それだけ古い話だと思ってほしい。
 
 
 エーは、小柄で痩せこけていた。私が子どものころは、こういう痩せた子どもは「骨川筋衛門(ほねかわすじえもん)」とあだ名を付けられて、からかわれていたものだ。顔はとてもユニーク。その表現で理解してほしい。いわゆる、「ハズレ」というレッテルが貼られそうな子だった。
 
 しかし、ステージに上った瞬間に、彼女はそれまでの陰鬱な仮面を脱ぎ捨てる。自分のダンスの順番がくるやいなや、ステージに飛び乗って角の特等席を占める。ここが一番踊りやすいのだろう。ポールをつかみ、手も足も頭もばらんばらんに、はちゃめちゃに踊りだす。踊り狂うと言った方がよいだろうか。
 
 その脇目もふらずに踊る様に、ある種の快感を覚えたのは確かだ。見ているだけでわけもなく楽しい。思わず口元がほころび、時に笑いもこぼれる。「あははは、お前、すっげーよ!すっげーよ!」「よーし、いったれー!」めちゃくちゃに踊っている彼女の腰に手をかけると、私はパンティーの紐に100バーツ札を挟んだ。
 
 
 ふいにエーのことを思い出したのには訳がある。それはカウボーイ2に、よく似た感じのコヨーティーがいるからだ。姉妹で踊っているが、たしか姉の方だったと思う。名前は知らない。細くて、背中に大きな刺青がある。まあ刺青は、けっこう多くの子がしているから、今はそれほど目立ちもしないが。この子もまた、最初から最後まで、激しくよく踊っている。その姿を見ていたら、自然とエーのことが思い出されたのだ。
 
 そのころの私は、週に1~3回くらいソイカウボーイへ通っていただろうか。そのほとんどを、カウボーイ2で過ごした。まだバカラにハマる前の話しだ。お目当てはエーのダンスを見ること。ドリンクもたまにご馳走したかもしれないが、ほとんど話はしていない。もちろん、ペイバーもしたことがない。ただ見て、チップをあげるくらいだった。
 
 
 ある日、ソイカウボーイが店じまいする時間まで飲んでいたことがある。当時は珍しい話ではない。店の明かりが消えた通りには屋台が並んで、女の子がひしめいている。その中にエーの姿を見つけた。手にはビニール袋を下げている。彼女は店の上階で暮らしているので、持って帰って食べるつもりなのだろう。
 
 何を会話したか覚えていないが、エーは私のアパートはどこかと尋ねた。それが近くだとわかると、送って行くと言う。私は「いいよ」と言ったのだが、エーとその友だちの2人が、私の後をついてきた。おそらく私が酔っ払っていたから、無事に帰れるか心配したのだろう。そのころ私は、ソイカウボーイから歩いて10分ほどのところに住んでいた。
 
 歩いて帰る途中、エーたちと何を会話したか覚えていない。おそらく、ほとんど何も話さなかったと思う。今でもそれほどタイ語がしゃべれるわけでもないが、当時はまだほとんど話せなかったはずだから。
 
 私は酔ってはいたが、頭はまだ冴えていた。歩きながら、この子たちは何が目的なのだろうと疑問に思っていた。「このまま私のアパートまで行って、部屋まで上がりこむつもりだろうか?3Pしたいという気もないし、それならどこで追い返すのが良いだろうか?わざわざ来たんだから、20バーツずつくらいチップをやらんといかんかなあ。」そんなことを考えながら、アパートまで帰り着いた。
 
 
 「ほら、ここだよ。」と私が言うと、エーは「じゃあ、私たち帰るね。」と言って帰ろうとした。その時初めて私は、彼女たちがただ私のことが心配でついてきてくれたのだと理解した。「ちょっと待って!」私はあわてて2人を引き止めると、財布から100バーツ札を2枚取り出し、彼女たちに1枚ずつ渡した。
 
 しかしエーは、なかなかそれを受けとらない。「お礼だから」と言っても、手を後ろに隠して受けとらない。しびれを切らした私は、エーのきゃしゃな腕を無理やり引っ張って、その手の中に100バーツ札をねじ込んだ。「じゃあね、ありがとう。」そう言うと、私はそそくさとアパートに入った。渡したお金を返されたくなかったのだ。
 
 
 部屋のベッドに寝転がって、あれは何だったのだろうと思った。エーは、純粋に私のことを心配してくれたのだ。思いやり。タイ語ではナム・ジャイ(น้ำใจ)と言う。ナムは水のことで、ジャイは心。タイでは訪ねてきた人に水をふるまって、もてなす風習があるという。おそらく、そんな「水を一杯おあがりなさいな」という気持を、ナム・ジャイと言うのではなかろうか。
 
 そんな純粋なエーの心を疑って、何か裏があるのではと思っていた自分を恥じた。夜道を酔っ払って歩いて帰るのが心配だという、彼女の優しさに気づかなかったなんて。しかも、お礼がたったの100バーツか。どうして1000バーツくらいあげなかったんだろう?でも、もし1000バーツもあげようとしたら、エーはどう思っただろう?それこそ、心を金で買うヤツと軽蔑したかもしれない。そんなことを考えているうちに、私は寝てしまった。
 
 
 何が正解かはわからないけど、あのとき、とっさに100バーツをあげようと思ったのだ。何もしないではいられない感謝の気持を、それで表現したかったのだ。1000バーツでは、かえってエーに恐縮させてしまうだろう。100バーツで良かったんだ。私は、そう自分に言い聞かせることにした。
 
 それからしばらくして、エーの姿を見なくなった。どうやら辞めてしまったらしい。そして私の足も、カウボーイ2から遠のいた。エーのダンスを見られないなら、通う必要もないと感じたからだ。エーは今、どこでどうしているだろうか。目の前で激しく踊るコヨーティーの子を見ながら、私はその向こうにエーの姿を見ていた。